榎本外務大臣のメキシコ(チアパス)植民計画(1897実現) - メキシコ情報サイト「アミーゴWEB」

トップ >> メキシコと日本の歴史 >> 榎本外務大臣のメキシコ(チアパス)植民計画(1897実現)

榎本外務大臣のメキシコ(チアパス)植民計画(1897実現)

1891年~1897年のメキシコと日本の歴史についてのページです。


1891.10

中南米で最初の日本領事館(ブラジルに先立つこと6年)がメキシコ市に設 置され藤田敏郎領事代理が着任した。 同領事代理はメキシコが将来日本人植民の受け入れが有望とみて建議し、榎本外務大臣は建野公使に対し日本人のメキシコ植民の可能性の詳細調査を命じた。

1892

日本人植民地の可能性を探るべく榎本外務大臣(1891~92在職)は視察団を派遣、藤田領事代理も加わってメキシコ国内各地を移民の可能性を探る視察が4~10月にわたり実施された。 榎本外務大臣は、また駐日領事マウリシオ・ウオルハイムに移住候補地の斡旋方を依頼した。これに対し当時農商務植民大臣のマヌエル・フェルナンデスはチアパス州八カ所と、ゲレーロ州二カ所の官有地を日本人植民のため払い下げる用意があると回答した。

1893.3

植民協会(その後日墨拓殖会社となる)が発足し、榎本を会長に選任した。

1893.7

根本正評議員が訪墨し植民地の可能性を探りチアパスをコーヒー栽培適地として報告した。 デイアス大統領、フェルナンデス大臣に会見した際、大統領は日本人移民受け入れに積極的態度を示した。

1994年 

橋口文蔵農学士が詳細調査の実施のためメキシコに派遣された。 同人は1996年に帰国してチアパス州エスクイントウラ(11.6万ヘクタール)を植民地建設最適地(海に面 しているところから港の建設、漁業の育成も可能)と報告した。

1895.6

移住組合が結成され、12月、株主総会で草鹿砥寅二氏(札幌農学校卒)を土地購入のためメキシコへ派遣することを決めた。

1897.1

日墨拓殖会社はチアパス州エスクイントウラの官有地約6万5000ヘクタールを正式に購入した(1ヘクタール当たり1ペソ50、15年払い)。

1897 明治30年

3月24日 36名の日本人(全員男子)が横浜発の米船GAELIC号で出発した。 サン・フランシスコ、アカプルコで乗船を換えチアパス州サン・ベニト(現プエルト・マデーロ)に5月10日到着、25km先のタパチューラを経由、あとは徒歩でエスクイントウラに向かった。1名アカプルコで病死するも、 5月19日入植地にラテン・アメリカで最初の日本人集団移民35人が到着した。 その後開拓資金不足その他諸般の悪条件から榎本殖民地からは逃亡者が続出して翌年には殖民地は崩壊した。 メキシコへの第一次移民は同時にラテン・アメリカへの初の日本人移民であった。第一次移民は播州赤穂及び三州吉良の旧士族が中心で、これに岩手、宮城県出身の若干名の自由移民が加わっていた。 1967年に榎本植民70周年記念事業の一環として、チアパス州アカコヤグアに記念碑が置かれることとなった。 後年完成したオベリスク型のその記念碑の裏面には松田英二博士の筆になる碑文「夏草やつわ者共の夢の跡」との松尾芭蕉の句が刻まれている。



関連リンク

メインメニュー