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サンフランシスコ号漂着事件

1609年のメキシコと日本の歴史についてのページです。


1609年(慶長14年)9月

太平洋を東航中のスペイン船サンフランシスコ号、サンアントニオ号、サンタアナ号が大暴風雨に遭遇し全三艘が難破し、その中でも乗員・乗客373人を乗せたサン・フランシスコ号が9月30日上総沖、岩和田(大多喜領、現御宿)で座礁 した。住民が救出に向かい、317名が救助された。

城主本田出雲守忠朝(家康の功臣本田忠勝の次男)自身も現場を訪れて遭難者が必要とした衣類等を提供と、一行の保護を命じ、37日間の滞在中厚遇した。岩和田村民の物心両面 にわたる援助は遭難者から大いに感謝された。同船にはたまたま帰国途次のロドリーゴ・デ・ビーベロ・イ・ベラスコ前ルソン総督代理が乗船しており、日本滞在中ビーベロは江戸に出て二代将軍秀忠に会見し、また翌年には駿府の家康を訪問した。

当時日本に居たフランシスコ会士ルイス・ソテロを介して初めて日本の支配者とスペインの高官の対話が実現し、ここに両国間通 商交渉が開始された。

家康はヌエバ・エスパーニャとの交易を望むこと、また銀採掘のための冶金技術者50名をヌエバ・エスパーニャから招請したいとの希望を述べた。

これに対してビーベロはスペイン船の海難への救助協力と宣教師の保護、家康とフェリペ三世間の友好関係の維持、及びスペインの敵オランダ人の日本追放を要請した。

イスパニア、ヌエバーエスパーニャ間の通商開始のため、以下内容の協定案が家康ービーベロ間に作成された。

・ビーベロは家康の要請をスペインの支配者に進言する

・メキシコからの鉱山技師派遣と、採掘された銀の関係者間配分の規定

・フランシスコ会宣教師の日本でのキリスト教*布教の容認

・日本の港におけるスペイン船の入港許可と保護、及び商館設置等
(オランダ人の日本からの追放は受け入れられなかった)

家康はビーベロがヌエバ・エスパーニャに帰還出来るよう、ウイリアム・アダムスに洋式船の建造を命じ、サン・ブエナベントウラ号120トンの建造とその艤装に必要な経費4000ドウカート相当を幕府より提供した。

*この頃日本の総人口は2000万人と推定され、内キリシタンの数は凡そ75万に達していたとされる。



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