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伊達藩使節、支倉六右衛門常長ヌエバ・エスパーニャ経由渡欧

1613年~1620年のメキシコと日本の歴史のページです。


1613年10月(慶長18年)

支倉六右衛門常長を長とする伊達藩のローマ教皇への使節一行と同使節派遣を企画したソテーロ神父は60人の侍のほか多数の商人等を伴い、サン・フアン・バウティスタ号に合計180人が乗船して10月28日、宮城県牡鹿の月之浦を出港ヌエバ・エスパーニャに向かった。

同船は12月バハ・カリフォルニアに到着、1月25日アカプルコに回航した。使節一行は陸路メキシコ市に向い、副王ディエゴ・フェルナンデス・デ・コルドバ以下の貴顕から大歓迎を受けた。

伊達政宗から副王への親書には伊達領への宣教師の招請、スペイン船の受け入れと英・和人の排除が謳われ、また、自藩への技術支援の要請が含まれていた。なお、大部分の従者、商人はアカプルコに留め置かれた。

1613年

スペイン国王はその臣下が家康により保護され、また宣教師の日本での布教活動の継続が許されるならば、毎年商船一隻をヌエバ・エスパーニャから日本に送ることに同意するとの書簡を送ろうとしたが、家康のキリスト教についての方針変更があって実現しなかった。

1614年6月

支倉使節一行15人はスペインに向けベラクルスを出発、ハバナを経由しセビージャに到着した。

1615年1月

マドリッドにて常長は国王フェリペ3世に謁見しその後洗礼を受けた。国王宛の伊達政宗の親書には伊達領内での布教への協力方、及び宣教師派遣等の要請が含まれていた。

1615年(元和元年)

大阪夏の陣、5月8日豊臣氏滅亡。

諸法度(武家、禁中・公家、諸宗・諸本山)が出された。

この年支倉使節一行はローマに向かい、11月3日ローマで教皇パウロ五世に謁見した。翌年、スペイン、ヌエバ・エスパーニャ経由の帰途につき、1618年6月マニラに到着した。



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