トップ >> メキシコと日本の歴史 >> 豊臣秀吉とルソン総督間の交渉
1591年~1594年のメキシコと日本の歴史についてのページです。
秀吉はスペインのルソン総督に宛てた入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。
豊臣秀吉はキリスト教布教の伴わない南蛮貿易を望み、自らルソンとの交易を推進しようとしていた。
ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスはドミニコ会士のフアン・コポスを派遣、秀吉に書信を返し友好関係樹立を標榜する一方で使節に高い身分を要求する等して時間を稼いだ。また秀吉に贈物を届けた。
他方、日本人来襲を恐れ、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)
秀吉はコポスを総督宛返信を届ける使者に起用したが、コポスが帰路遭難したために秀吉の返信は総督に伝わらなかった。
秀吉は再度総督宛に返信を届けるため原田喜右衛門を起用し、原田は翌年4月マニラに到着した。
この頃在マニラ中国人約2000名の一斉蜂起があり、政庁の要請でマニラに在住していた日本人多数が反徒鎮圧に協力した。
総督は新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に起用し日本に派遣した。
朝鮮出兵中の秀吉は名護屋で特使を引見し、重ねて服従と入貢を強要するとともに、10月には来航した船の船長ペドロ・ゴンザレス・カルバハルにも同様の内容の記した書簡を持たせて総督に送った。
新しく総督となったルイス・ダスマリニャスはアウグステイン・ロドリゲスを使者とし、口実を設けて回答を引き延ばしする返信を持たせて日本に派遣した。
使者は9月に日本に到着したが秀吉は朝鮮出兵に忙殺されていて交渉は進展しなかった。
この年ヘロニモ・デ・ヘスス以下フランシスコ会の修道士4人が布教を目的としてルソン総督より日本に派遣され、到着後布教を開始した。