トップ >> メキシコと日本の歴史 >> ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)からのスペインの東洋進出
1521年~1577年までのメキシコと日本の歴史についてのページです。
フェルナン・デ・マガリャネス船隊が世界周航(1519~1522)の途次、グアム、次いでフィリピン諸島のサマール島に到達した。マガリャネスは4月にセブに着き、その対岸のマクタン島人との闘いで戦死する。
エルナン・コルテスがヌエバ・エスパーニャからアルバロ・デ・サーベドラ指揮のフロリダ号を東インディアスに派遣し、6月到着したが東航による帰航に失敗した。
コルテス自身カリフォルニア半島に航海し、基地ラ・パスを建設した。
ルイ・ロペス・デ・ビジャロボスの率いた極東遠征隊がシワタネホを出帆。
翌年一隻のみフィリピン諸島イスラス・デル・ポニエンテに到着し、フェリペ二世のフェリペ皇太子に敬意を表してフィリピンと命名した。
東インデイアス(香料諸島)に到着するも復航に失敗した。
アデランタード(先遣総督)、ミゲル・ロペス・デ・レガスピの率いた東洋遠征隊の4隻の船隊がバー ラ・デ・ナビダードを出帆し、翌年4月フィリピン諸島のセブ島に到着し同島にスペインの主権を確立した。
ロペス・デ・レガスピ遠征隊がルソン島に進出、マニラを制圧した。
ロペス・デ・レガスピはマニラへの再征に成功し、翌6月にはマニラ市を設置しフィリピン植民地支配の首府とした。
イスパニア人はルソン全島を支配下に置いた。16世紀に入ってから倭寇の日本船が東南アジア各地に出没しており、特にフィリッピンには交易目的で来航するものも含まれ、フィリピン西北岸を根拠地として最盛時には約3000名の日本人が居住した。