トップ >> メキシコと日本の歴史 >> 契約労働者移民の来墨
1900年~1910年のメキシコと日本の歴史についてのページです。
北部チウアウア、バハ・カリフォルニア両州ほかへの農業植民計画は実現に到らず、代って北部のメキシコの鉱山、鉄道建設現場、南部の農園ほかへの契約労働移民が多数赴いた。
ラス・エスペランサス鉱山(コアウイラ州)に日本人契約労働者20名が到着した。責任者はソート・レーク・シテイ在住の橋本大五郎であった。
ラス・エスペランサス鉱山ほかに新たに日本人坑夫82名が到着した。
契約労働者の集団移住は1906/1907の両年がピークで1907年10月までに熊本移民、大陸殖民、東洋移民の三社扱い合計で約8700人がメキシコに赴いた。殆どの移民が3年契約で鉱山、鉄道敷設、農園・農場での労働に従事した。 主な行先はコアウイラ州内のラス・エスペランサ、フエンテ炭坑、コリマ州の鉄道敷設工事、テフアンテペック地峡のオアハケーニャ農園であった。
ソノーラ州カナネア鉱山でストライキ発生。
移民会社活動最後の年となり、合計3800人の移民がメキシコに向かった。 1901年以来、ラス・エスペランサス鉱山に向けてだけでも計5000人の日本人移民が送り込まれた。 同年末、80名以上の逃亡者を出して問題となり、荒川公使はメキシコは移民の受け入れには不適格と報告した。
メキシコでの契約労働は苛酷な労働条件と厳しい環境など実態が明らかになるにつれて失敗とみなされ、労働者移民送り込みは禁止された。外務省はこの年メキシコを渡航先とする労働者への旅券発給を中止した。
米国での人種差別による排日運動が激化したことに配慮して、日本政府はアメリカ向け移民への旅券発行を自主的に停止した。その後1924年には排日移民法の施行をみた。
東洋汽船、日本メキシコ間に初めて定期航路を開設した。
この年、メキシコに滞在中の日本人移住者は約7500人に達した。 1901~40年の間メキシコへの日本人呼び寄せ、あるいは単独渡航者数は約3500人であり、集団移住者と合わせると日本人移民者総数は1万~1.2万人とみられているが、その内、可成りの人数が後に米国に不法入国している。 またメキシコは他の中南米諸国から米国へ向かう移民の中継地でもあったことから、一旦ペルーなど中南米諸国に入国し、その後米国へ移動 する途次に立ち寄ったメキシコに落ち着いた人々も出た。 革命動乱が一段落した1920年頃から各地に日本人コミュニテイが出来始める。