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メキシコ独立百周年祝賀祭への日本の参加

1907年~1910年のメキシコと日本の歴史についてのページです。


1910

9月16日 メキシコ独立宣言百周年祝賀祭が挙行された。 9・10の2ヶ月間、日本の芸術、工業製品、農業等の産物を展示する日本博覧会“エスポシシオン・ハポネサ”がパラシオ・デ・クリスタルで開催され大成功を収めた。周辺には茶室付き日本式庭園も作られ、また小劇場が建てられて日本の舞踊、音楽、武術、その他の演劇が上演された。

1910

デイアス大統領は子息を特派大使として日本に派遣した。デイアス政権末期のメキシコと日本の友好関係の緊密化をアメリカは警戒し、1910年の初めにデイアス大統領と会談のためメキシコを訪れたウイリアム・ランドルフ・ハーストは日本が米国攻撃の準備を進めている、経済上の優位性を巡り激烈な戦争が行われている、また領土拡張の一環として日本がハワイとフィリピン領有を意図していると述べ反日感情を煽った。 1910.12 日本の練習艦隊(浅間、笠置)がサリナ・クルスに寄港し、メキシコ市を訪問した将校と士官候補生はデイアス大統領から接見を受けると共にメキシコ市民から大歓迎を受けた。 チャプルテペック城での陸軍大臣が催した八代六郎提督歓迎晩餐会で八代提督は人種上の同胞であるメキシコ人のために、さらに日本人とメキシコ人は手を携えて共通 の敵に立ち向かおうと乾杯した。その日の晩餐会の情景は後日グアテマラ紙にVIVA JAPON, ABAJO LOS GRINGOS と叫ばれる中で閉会したと報道された。メキシコ人のアメリカへの反感が日本への好意的態度になったことでアメリカに日本への警戒心を強めさせることとなった。 1907年バハ・カリフォルニア半島南端、太平洋に面するマグダレーナ湾のコチニーリャ採取地が売り出された際の買取予定者がサン・フランシスコ在住の数名の日本人であったことが明らかになったところから米国はこれを自国の安全保障に対する脅威と受け止め、モンロー主義のロッジ(ヘンリー・カッボト)解釈(以下)を導入して1912年上院で決議した。 「アメリカ大陸のある港もしくは他の場所が、他国の海軍あるいは陸軍により軍事的目的で占領され、その地点が米国の通信・交通ないしは安全がおびやかされうる位置に存在する場合、また、米国ではない国の政府に関連を持つ法人、または団体がかかる港もしくは他の場所を領有することによって、海軍あるいは陸軍のいかなる計画をも制御する力を獲得するという事態を、米国政府として、何らの警戒感を伴うことなく見過ごすわけにはいかない」とした。 アメリカの新聞はメキシコがバハ・カリフォルニア半島全体を米国に売却すべきと唱え、メキシコの新聞は国土の一部を再び失う事態を招来しかねない取り決めを容認したデイアス大統領の姿勢に対し攻撃を加えた。 (この項、「近代メキシコ日本関係史」より抜粋)



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