徳川家康とルソン総督間の交渉 - メキシコ情報サイト「アミーゴWEB」

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徳川家康とルソン総督間の交渉

1598年~1609年のメキシコと日本の歴史についてのページです。


1598

秀吉死去。天下統一事業は家康が引き継いだ。

フランシスコ会士のヘロニモ・デ・ヘススが、通商に関心を持っていた家康と会談した。家康はルソンとの友好と通商関係の樹立を望み、マニラのガレオン船の日本寄港を歓迎すると表明した。一方で日本船のルソンとヌエバ・エスパーニャでの受け入れ方を要望、その実現のため造船技術者、航海士、また鉱山開発のための技師の日本への派遣を要請した。

ヘロニモ・デ・ヘススはマニラ総督テーリョに宛てて書簡で家康の要請を報告した。総督はヌエバ・エスパーニャの上司に本件を伝達するも特段の反応が得られなかった。

1600

この年の春、2年前に西回りで東洋に向けて出発したオランダ東インド会社の船隊の生き残りの一艘リーフデ号が豊後に漂着した。その航海長であった英人ウイリアム・アダムスはその後家康の顧問となった。

1601

家康は再度スペイン植民地との通商関係樹立を図ろうとしてマニラ総督にペドロ・ブルキーリョ修道士を使者として送り込み、日本人海賊数百人を捕らえて処刑したので日本近海の制海権が確保されたことを知らせ、ヌエバ・エスパーニャとの通商を要請する旨を伝えさせた。また、ヘロニモ・デ・ヘススもマニラ総督に回答を促進させるために送り込んだ。

1602

ペドロ・デ・アクーニャルソン総督は日本との通商関係を結ぶことに好意的な返信を送り、実際に家康の希望に沿って商品を積んだ商船を関東に送る手配をしたが、船舶建造等のための技術者派遣は自分の権限外としてヌエバ ・エスパーニャ副王とスペイン国王宛に報告を送った。

家康は総督に対し返信を送り、その中でガレオン船が通商目的で、あるいは悪天候から避難するために日本の港への入港することを認めることを伝え、他方日本船のルソン、ヌエバ・エスパニャでの受け入れ方を要請した。 ペドロ・デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船は家康の支配下の関東でなく、九州の港に到着した。

この年のナオ・デ・チナの一隻エスピリツ・サント号が暴風雨で難船し土佐清水に入港した際に積み荷の一部没収等当局の不適切な取り扱いがあった。

10月、抗議を受けて家康は没収品の返還を命じた文書を発行し、再度 マニラ総督に宛て日本の港への緊急避難時の入港と船の修理を保証する書状8通 と入港許可書を送付した。

1603

ペドロ・デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船サンテイアゴ号でフランシスコ会士ルイス・ソテーロ等が日本に到着し、ソテーロは家康から布教する許可を得た。

イエズス会の布教活動開始からは凡そ半世紀遅れたが、フランシスコ会は関東を中心に本格的布教活動を開始し、京都、大分、大阪、浦賀に聖堂、修道院を建てた。 この年、ヌエバ・エスパーニャ、スペインとの直接交易を望んでいた家康 の命を受けたウイリアム・アダムスがマニラに赴き、家康の直接支配下の地方との通 商関係樹立についてスペイン側に説得を試みた。

1604

アクーニャ総督、友好を求める書簡を贈物と共に家康に送る。

1605

家康、アクーニャ総督に書簡の受領と贈物への謝意を述べた返信を送る。

この中で家康は日本でキリスト教の布教は許されないとの見解を表明した。

1605

ロドリーゴ・デ・ビーベロ総督代理は家康に派遣されてマニラに滞在していたウイリアム・アダムスに託して家康と秀忠に宛てて書簡を送り、友好関係の継続を望み、日本船のマニラ入港を歓迎する、また天候によってはスペイン船が徳川幕府の支配下の日本全土への入港が認められるべきこと、キリスト教布教活動を行う宣教師への待遇改善等の要請を行った。

1606~08

マニラ在住の日本人約1500名が武力蜂起したが、修道士達により慰撫されて事なきを得た。日本人の暴動は1607/08両年にも発生し、武力鎮圧されて日本人はマニラ市外に追放された。ビーベロ総督代理は日本からの来航船を制限して欲しい旨家康に要請し、同時に暴動時に捕らえていた日本人を送還した。

1608

この年初めてルソン発商船の関東の港(浦賀)への入港が実現した。

家康・秀忠はビーベロ総督代理の書簡に対し交易拡大を望む旨書き送った。

1609

フアン・デ・シルバ新総督が着任し、マニラの日本人の行為について不快であることを家康に書き送り、家康は返信で不穏分子の処罰を促した。

新総督はまた日本における宣教師の取り扱い、日本のガレオン船受け入れに謝意を表した。



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