スペイン国王フェリペ四世の使節来日 - メキシコ情報サイト「アミーゴWEB」

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スペイン国王フェリペ四世の使節来日

1623~1641年のメキシコと日本の歴史についてのページです。


1623年7月

スペイン国王フェリペ四世は日本との国交樹立と貿易の活性化をねらって、フェルナンド・デ・アヤラを使節としてルソンからサン・アンドレア号で派遣した。

同船は将軍家光への莫大な贈物を携行し、70余名の随行員を乗せて8月山川港へ到着し、長崎へ回航した。長崎奉行の報告に接した幕府は、翌年3月、上京途次の使節から礼は受けず、使節は直ちに立ち去るべしと書面 で通知した。

使節一行はやむなく便乗していた日本人帰国者30名を乗せたままマニラに帰航した。直後に幕府はスペイン船の日本入港とイスパニア人の日本渡航の禁止令を出した。

これを以て日本とスペイン、ヌエバ・エスパーニャ間の交流は途絶した。

1629年

踏み絵の令が出され1615~1630年間キリスト教弾圧、取り締まり寛永6年が強化され、発見されたキリスト教信徒約28万人が処刑された。

1635年(寛永12年)

幕府貿易制限令を出す。

幕府は全ての日本船の海外往還を禁じ、違反者、帰国者は死刑とするとした。中国船の来航も長崎に限って認めるとした。

1637~1638年(寛永14・15年)

天草・島原の乱

自然発生的な農民一揆が引き金となって天草・島原の乱が発生した。

これに天草の地に身を隠していたキリシタン大名小西行長、有馬直純の遺臣等が加わり、キリスト教再興の旗印のもと天草四郎を主将として結集し、幕府転覆の大きな企てとなったが、鎮圧され反乱軍は玉 砕殉死した。

天草・島原の乱の結果、必要な諸措置が採られ幕府の鎖国政策が完成した。

1640年

オランダ人を除く全てのヨーロッパ人が日本から追放された。

1641年(寛永18年)

オランダ人が長崎の出島に移された。

以後約2世紀の間、日本と新大陸との接触は偶発的な場合を除き停止した。 日本とメキシコの間の次の接触、交渉は1874年となる。



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